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【能・狂言】2024 新春能で新年を寿ぐ

舞台・芸術鑑賞

おいでよ、能・狂言の世界へ …とニワカ(私)が申しております。

無から始まり、無に還る。完全な様式美=能

リタイア後の新たな芸術鑑賞、深く知る「和の世界」。前々から興味はあるものの機会がなかった能狂言の鑑賞は、リタイア翌年にあたる2年前の春から始まりました。まだまだニワカ(新参者)です。

能・狂言って何がいいのかと聞かれて私なりに最近コトバにできたのが

「無から始まり無に還る。約700年前から変わらぬ完璧な様式美」です。そう、所作も衣装も番組のストーリーも謡も囃子も…なにもかもが「儚くもあり、雄々しくもあり、美しい」のです。

能の舞台そのものを写真やテレビ・映画などで見たことがある方もおられると思いますが、番組(プログラム)が始まる前は舞台上にはなにもないんです。鏡板と呼ばれる老松が描かれた舞台があるだけ。そこに作品ごとに決まった人々がとても静かに入場されるところから始まります。

シテ方と呼ばれるいわゆる演者や地謡や後見、あとワキ方・狂言方・囃子方(大鼓、小鼓、太鼓、笛など)が音もたてずに橋掛(はしがかり)と呼ばれる廊下のようなところや松の手前の切戸口というところから入場し持ち場につきます。特に橋掛からの動きは大変ゆっくり(5秒あるいはもっとで1歩)進む場合もあり、静けさの中にある「厳か」の一言。動きも激しい舞があったりもしますが、所作はゆっくりで、ことに「待ち状態」の人はぴくりとも動かない。視線も。石のようにじっと座っています。川のせせらぎにたたずむ岩のようです。動くタイミングもすべて決まっています。

時間にして、番組(プログラム)によってさまざまですが、能(あるいは地謡のみなどケースによる)→狂言→能で3~4時間といったところでしょうか。途中休憩もありますが1時間以上座りっぱなしもざらにあります。休憩時間は席を立ってお散歩、これ鉄則。

そして最後まで見ること。静かに厳かに始まり、狂言で笑いをいれつつも、最後の最後はクライマックス。まるで「ボレロ」の世界にもにた高揚感です。

舞台上に作り物と呼ばれる道具(竹や布で岩や鐘を表したもの)が運ばれる番組もありますが、終わるとまた何もなかったかのように作りものも人も橋掛あるいは切戸口から去っていきます。すべての動きが決まっている、何もない舞台から生まれる何か。そして激しい舞や厳かな舞や謡いが、囃子が、夢のように何もなかったように消え去る。気が付けば鏡板と自分だけ。これは無。無からいでて無に還る。ひとつの宇宙であり己。

動きが決まっているというと、所作の茶道もそうですね。この「様式美」にひき込まれます。私たちは客としているのではなく、演能=鏡板の向かいにあるはずの影向の松(神様)に演者が祈り捧げる番組を大変僭越ながら拝見させていただいている、という感覚。拍手は最後の最後、舞台が「無」になった時くらいにしますが、舞台演劇のような「気合の入った舞や謡いのすぐあとに拍手をする」ことはありません。どんなにブラボー!!と思っても高揚した心を静めて?さざ波の如く小さく拍手をするのです。もちろんカーテンコールもありません。様式美の中で「完全」なのです。

特に、奉納する能(神社や寺で奉納される能)は拍手はしません。演能も拝殿向きに行われるので私たちはその後ろ、演者や囃子の後ろから見せていただくテイになります。

新春能にいってきました

大阪、谷町にある大槻能楽堂。こちらの創立90周年記念と新年を寿ぐ新春能が2024年1月3,4日にあり両日行くというとても贅沢で貴重な機会を得ました。新年あけて早々の災害続きで思うところあり、私自身は着物をやめて洋服でいってきましたが、ちらほら着物の方もおられてそれはそれで大変眼福でございました。恒例の鏡割りもなしでしたが、来年こそはできますように!

◆ 1日目

  • 「翁」 観世三郎太 茂山千五郎
  • 狂言「末広かり」茂山七五三
  • 能「高砂 八段之舞 流之伝 八頭之伝 太極之伝」観世清和

◆ 2日目

  • 「翁 弓矢立合 三人之舞」
    観世清和 観世銕之丞 大槻文藏 野村万作 野村萬斎 野村裕基
  • 狂言「三本柱」 野村萬斎
  • 能「望月 古式」観世銕之丞

1日目は「厳かに寿ぐ」、2日目は「煌びやかに寿ぐ」といった感想です。

は2日ともあり

1日目は「天下泰平 国土安穏」で大地を踏み鳴らす翁が力強く、ああ、これからよくなる1年であれと祈らずにはいられない。新年の寿ぎにふさわしく、舞台上が光って見えました。

2日目は弓立立合での3方の朗々としてよく通るお声と神々しい鶴の装束がよき。三人之舞では野村三代、ことに今年93歳になられる人間国宝の野村万作さんの動きたるや、3人がキャンディーズパフュームに見えるほどの(!)キレ。鈴を手に持ち3人が打ち鳴らす、囃子の鼓との一致。空気が、いや日本全国がお清めされたキモチ。

1日目の狂言「末広かり」は、事前のプログラムと違って果報者に茂山逸平さん(当初は七五三さん)、すっぱ(詐欺師)に茂山七五三さん(当初は別の方)。とぼけて「末広かり」の偽物を売りつけた七五三さんと騙された太郎冠者。ある一手に乗せられて、つい楽しく踊って許してしまう逸平さんの動きがおもしろくて、ずっと笑ってました。やさしい笑い。好きだなぁ。

1日目の能「高砂」♬ た~か~さ~ご~やぁ~♬で有名ですね。長寿、夫婦和合の縁起のある番組。最後に松の精が登場するのですが、青海波の上衣と立湧の袴もあいまって神様の舞は大変厳粛で神々しい。

2日目の狂言「三本柱」は野村萬斎さんが果報者(って自分で言ってた)が太郎次郎三郎冠者の3人の知恵を試すもの。見事に課題をクリアしてこちらもひょうきんな舞をみせてくれます。萬斎さんの衣装、グレーっぽい色とサーモンピンクぼい色の上衣と袴、松竹梅と飛鶴の柄ゆきがおめでたいな~と見とれていました。

2日目の能「望月」は仇討ちもの。最後、見事な獅子舞でスキを作り、仇討ちなどうやるのかなと見ていたら、仇に刀を抜いて襲い掛かるところで動きがとまり、仇が切戸口から去り、舞台上では人はいなくなったけれどいるテイでその仇に刀を何度も振り下ろす。なんと雅な表現か。血しぶきが一切ない。妄想だらけの私には見えましたとも、首だけになった仇の姿が。2日目の番組は「3」が目立つものでしたが、この望月ももしかして3人が運命の出会いを果たし仇を討つ、の3? (ニワカゆえとんちんかんお許しを)

考えるな、感じろ

かの有名なブルースリー氏もおっしゃっています。そう、あれこれ調べてなんのかんのするよりも、その場で感じること、これ大事(ニワカがすいません)。

客層は男性も多くて半々くらい、年配の方が多く、アラカンなんかまだまだ。だけどもっとお若い方々も見に来られています。

あんなに激しいお囃子や謡いで寝ることができるというのは、おそらく脳から心地よいアルファー波でもでてるのではないかと思うほど、いざなわれる能(脳)の世界。この2日間でも何人も誘われていました。それもシアワセの形。私のようなソロ活おひとり様もそれなりに多かった印象です。

おいでませ、能狂言の世界へ。ひとつひとつの番組(神様もの、狂女もの、源平関係もの、鬼がでてくるもの等々)の作品世界を深く突き詰めていく楽しみ、表現される衣装の柄や舞、謡と囃子の激しさと静けさ、阿吽の呼吸を観る楽しみ。己の心の高揚がどこからくるのかを自問自答で探索する楽しみ…。自由に妄想を広げて楽しむ、雅な世界へ。。

能楽堂からの帰りはちょうどマジックアワー。西に沈む夕日の残りと谷町のビル群。。さっきまでの舞台はやっぱり夢だったんだろうか…ほわほわしながら帰途につく。

↓ ストーリーはこちらで予習、復習、、止まらない。

↓ 能 狂言の世界。東大寺「野村三代」もよかった。。

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